岡山大学津田敏秀氏による
「喫煙による健康影響に関する意見書」
に答える
平成14年3月
横浜市立大学名誉教授
蟹澤成好
1.はじめに
2001年11月16日付で、津田敏秀氏より「喫煙による健康影響に関する意見書」(甲第
73号証)が提出された。その内容は、竹本意見書(乙第170号証)、蟹澤意見書(乙第171
号証)ならびに第19回口頭弁論における蟹澤証言に対する逐条的意見書ないしは反論部分
と、他に疫学的方法論を中心とした解説部分から構成されている。
上記意見書における津田氏の反論の大部分は具体的データを欠き、疫学的にすでにクリ
アされているとか、交絡要因として考慮済である等と主張して、私が示した疑問や問題点
に答えない一方で、私の記述は「誤っている」、「基礎知識がない」などと述べ、私の専門
である病理学や腫瘍学の領域にまで踏み込んで批判を展開しておられる。この甲第73号証
に記載の多くは、私の意見書を正確に読み理解されればここに敢えて再論する必要がない
問題と考えるが、文中でしばしば具体的に答えるよう求めていることや、一方的な断定的
論調部分が少なくなく、これらに対しては、もう一度私の見解を述べておく必要があると
考え、改めてここに意見書を提出するものである。
2.津田意見書(甲73号証)「第2章.蟹澤意見書(乙第171号証)について」について
2.1.「2・1.蟹澤氏の意見書の1・10まで」について
ここで津田氏は、私が述べた『2.医学の領域とその役割』の分類が「大正11年頃帝国
医学大学(このような名称の存在を知らないが)が創設された当時そのまま」で古臭く、
今日では異なっていると主張し、社会医学に関する記述「『個々人を対象とするのではなく、
ヒト集団あるいは社会の健康の保持、増進と疾病の予防を広く主眼としており』という部
分は明らかに誤っている」と述べ、「後に章を設けて説明する」、また、「実態に全く即して
いない」と述べているが、後段で設けられた5.1疫学データの個人への適用について(13
頁)がこれに相当すると思われるが、ここで説明されているのは適用拡大の問題であり、
疫学本来の目的が変わったとは思えない。明らかな誤りという記述は妥当でない。現在、
大学の変革が求められ、世界に通用する大学院大学化が進められる中で、各講座の研究内
容に照らして従来とは異なるグループ化が行われているが、これは研究レベルの話で、基
礎医学、臨床医学そして社会医学の3分野が消失したわけでも、あるいは、その役割が異
なったものになってしまったわけでもない。学問の進歩が、研究手法の拡大と深化をもた
らすのは当然であるが、社会医学の基本的性格が「誤っている」と断じられる程違ったも
のになっているとは言えまい。
次段落で津田氏は、病理学が「『こういう風に見えた』、『ああいう風に見えた』と記述す
る学問」と断じ、あたかも風景写真を見るかのように論じ、「時に、臨床診断よりも病理診
断の方が『正確』であると考えられる時がある」と驚くべき記述をしているが、医学の中
で確面たる地位を占めている病理学を乾めるような記述をすることは、学問に従事する者
が軽々しくなすべき行為とは思われない。また、「因果関係を…論じたりするものではな
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い」とも述べているが、それは誤りで、病理学は因果関係を論じることが本来の使命であ
る。そのような努力の中で、残念ながらがんの場合には因果関係の特定が難しいと申し上
げているのである。
次段落では、私の因果関係論に関する基礎知識のなさを指摘しつつ、腫瘍(主要という
記載は腫瘍の誤りと思われる)組織内に「『ウイルス』があればそこに発生したがんは全部
そのウイルスによる発がんなのであろうか?」と述べている。この質問は第19回口頭弁論
の際にもあり、回答したところであるが、化学発がんや放射線による発がんで形成された
腫瘍構成細胞内には、原因となった化学物質や放射線は全く存在せず、これらは単に発が
んの機縁になっただけであるのに対し、腫瘍ウイルスにより発生した腫瘍細胞中には、原
因ウイルスの感染が認められることを指摘したもので、このことを『ウイルスを別にすれ
ば…』と述べたものである(蟹澤意見書(乙第171号証)7頁中段)。
津田氏は、また、「国際がん研究機関により次々とがんの原因に関して発がん分類(この
ような分類はない)がなされている現状をどう説明できるであろうか」と述べ、『原因と発
生したがんの形態の間には特異的関係がなく…』ということが因果関係を特定できない理
由になるのは「形態学的診断」だけの話と述べているが、このような認識が疫学研究でし
ばしば肺がんの組織型を考慮した検討を欠く原因になっているのではあるまいか。ここに
私が記述したことは大変重要な事実で、つまり、証拠を示して発生したがんの原因を科学
的に特定する方法はないことを指摘しているのである。しかも、例えば日本人の男性肺が
んの発生率は、最近のデータでも人口10万人当たり50余人、すなわち1000人当たり0.5
人という低率の発生頻度を考慮し、かつ曝露50年余りの時間経過を経て発生してくる肺が
んの原因を、疫学では90%以上の確率で喫煙によると判断可能とみなす思考過程に対し、
疑問を呈しているのである。 、
2.2.『5.がん(悪性腫瘍)とはどのような病気か』
この中で、発がん加算説にふれた所で、「『加算』か『相乗』かなどの作用が生じるか否
かについての検証は、疫学によりなされる」旨を文献をあげて述べておられるが、それは
ひとつの試みと理解すべきだろう。複数の物質が生体に曝露された場合の相加、相乗ある
いは相殺作用がどのような作用発現を示すかは、基礎医学的研究が必要で、殊に2つ以上
の因子が関与した場合の影響は、曝露濃度一つをとっても、・それぞれの濃度の組み合わせ
の違いにより作用の発現に大きな違いが生じることが予測され、関与因子、因子ごとの曝
露濃度、曝露期間、曝露経路、曝露個体の内的因子の詳細等が明確で、かつそれらがどの
ように相互に影響するかが基礎研究で明らかにされる必要がある。疫学データはひとつの
目安と考えるべきものと思われる。また、加算、相乗等の検証を疫学が行っていると主張
し、疫学の優位性に大変こだわっておられるが、疫学的証明はあくまでも統計的解析であ
つて、決して個々人に発生したがんの原因を同定した上での証明ではないのである。個人
のがんの原因の同定は基礎科学的にはできないものを、敢えて喫煙、非喫煙により群別化
し、喫煙者に発生した肺がんは喫煙が原因とみなすことで統計処理を行っているのである。
この場合、喫煙により高率に肺がんが発生するのであれば説得性も高まるが、喫煙者の肺
がん発生率は、実際にはごく低率である上に、高度喫煙者でもその発生率は決して高いも
のではなく、大多数の喫煙者は肺がんにならないという事実を認識する必要がある。この
ことは、今回の裁判の原告達をみても明白で、Brinkman Index(一日喫煙本数×喫煙期間
(年);BI)の高い原告(例えば山本又男氏;BI:2800、石神辰二氏;BI:2000)に肺がん発
′
生がなく、一方BIの低い稲子勝氏(BI:680)に肺がんが発生しているが、このような現象
のメカニズムは疫学では検討の対象にならないのである。
2.3.『6.ヒトにおけるがんの発生』
この項でも、津田氏は「職業がん」の成果を一方的に疫学の実績とみなしているが、そ
れは事実に反している。特定作業集団に特定のがんが多発することの同定は、注意深い臨
床医の存在があり、長期の粘り強い追跡と外科手術材料、さらには病理解剖に基づく精し
い病理形態学的検索を経て達成されるもので、いきなり疫学的に同定されるものではない。
第19回口頭弁論の際にも申し述べたように、例えば、マスタードガス製造に携わった労働
者の肺がんが、職業がんに相当することを明らかにしたのは、広島大学病理学山田明教授
一門の研究成果であることは、原告側が追加提出された甲第75号証「職業がん」一疫学的
アプローチー倉常匡徳編12頁表1職業がん発見の歴史に示された表のマスタードガスの
発見者の項に“山田ら”と記載があることからも確かな事実である。
エイズウイルスについても述べられているが、エイズ患者に悪性リンパ腫の発生頻度が
高いという疑いは、臨床医学と病理検索の成果で、疫学者の発見ではない。しかし、問題
はこのような誰がどの学問的基盤に基づいて同定したかにあるのではない。ヒトのがんの
原因の特定が、通常では困難であるという事実にあるのである。また、ヒトと実験動物の
条件の相違をすべて交絡要因、交絡バイアスの問題に集約し、問題はクリアされていると
述べ、殊に『遺伝形質の異なる集団』という私の記述に対し、「現代の“遺伝子学”の知識
からするとでたらめである」と決めつけているが、根拠のない発言であることは、第19回
口頭弁論の席上、補佐人として「遺伝子は4種類しかないですよ」(調書61頁)と発言し、
遺伝子を構成する塩基が4種類でその組合せによってヒトゲノムが30,000〜40,000の遺伝
子によりできているという基本理解のなさを示したことを指摘するだけで十分であろう。
もちろん、遺伝子多型の研究は始まったばかりで、結論がすぐに出るような問題ではない。
双子研究に関する記述も、何を主張したいのか不明であるし、仮に「喫煙と遺伝子は関連
していないという研究」報告があったとしても、それは一つの研究データに過ぎず、それ
だけでものごとが決定するほど科学研究は底の浅いものではない。
2.4.『7.がんの現状:日本と世界』
この中でのがんの疫学の記述に対し、『述べてあることはかなり誤りが多い。いちいち指
摘しきれない』としている。この部分では厚生省やWHO他の作成した統計をもとに事実
を述べる以上の記述はしていないので、誤りが多いといわれても反論のしようがない。
2.5.『8.肺がんについて』
ここでの私の記述が『矛盾している』と述べているが、がん発生に対する知識、認識が
ある者にとっては何の矛盾もないのである。発がん性化学物質には標的臓器、標的細胞が
あることは、私の意見書(乙第171号証)17頁に記載した通りで、実験化学発がんの成果
の一つであって、ヒトのがん発生にも適用できるものである。この事実とヒトがんの原因
の同定とは全く話が異なる。さらに、細胞特異性に関して『クライベルグの仮説が検証さ
れた物質の例を私は知らない。…クライベルグの仮説は成り立たない(EPA1992)』と述べ
ているが、発がん物質の4NQOやNFNの標的細胞がクララ細胞であり、クララ細胞型肺
がんが形成されることは意見書に記載の通りである。
また、小林らと筆者が行ったイヌの主気管支の背部皮下への自家移植片を用いたベンツ
ピレン注入によるがん発生実験(乙第171号証文献17)では、気管支上皮の基底細胞の
異型増殖が、やがて扁平上皮がんの発生につながることを明らかにした。基底細胞につい
ては、私の研究室の稲山助手が、米国NIHの環境健康研究所(NIEHS、ノースカロライナ
州Triangle Park)に留学中に、Nettesheim博士の指導の下で、90%以上の純度をもつ基
底細胞分画から正常な気管支上皮の再現に成功し、太い気管支上皮部分の幹細胞(母細胞)
であることを実証しており1、活発な分裂能をもつ細胞として、がん化における母細胞とし
て十分な資格をもっている。クライベルグの仮説については、病理学の領域で使われてい
る事実を筆者は知らないが、ともあれ仮説が成り立たないという結論には賛成できない。
津田氏は、『肺腺がんの原告がおらず』と述べているが(6頁)、これは誤りで、裁判途
中での死亡により、肺腺がんの原告がいなくなったが、裁判開始当初、原告の一人であっ
た稲子氏の肺がんは腺がんとの記載がある。そのことを別にしても、肺がんの主要組織型
のひとつである腺がんを除いた議論では肺がんを論じたことにはならない。
2.6.肺がん発生における喫煙の関与度の検証
筆者が、「喫煙の関与の程度を真に検証することが出来ない中で、統計数値が一人歩きし
ているように思われます」と述べたことに対し、「『…真に検証すること』とは具体的には
何か、蟹澤氏は具体的に答えるべきである」と述べている。私が言わんとする所は、意見
書(乙第171号証)をじっくり読んで頂ければ明らかのはずであるが、具体的な証拠をも
つて特定個人の肺がんが喫煙が原因で発生したことを科学的に立証した場合に、真に検証
されたと判断するのであって、喫煙者の肺がんは対照群の肺がん発生率に基づく数値を除
外する操作を行えば、後はすべて喫煙によって生じたというような疫学的判断(津田氏意
見書、甲第52号証の60〜61頁及び104頁図表2)には問題があることを指摘したもので
ある。このような判断は、動物実験の場合のように、一つの発がん物質の曝露、非曝露の
違い以外はすべて条件が均一の場合に主張できる論理であって、(1)ヒトでは多くの不測
の要因の作用が想定され、その曝露量、曝露頻度も不明である。このような多要因の作用
によるがん発生を模式的に説明すると、仮にがん発生に必要な要因の蓄積が、一定の円筒
を徐々に満たしていくと想定した場合、ヒトの生活史の中で円筒を多要因が満たしていく
過程は定量し難いし、また仮に最終的に円筒を満たして溢れる状況、すなわちがん化の最
後の一押しを達成したものを同定してみても、それが真の原因だと言えるわけでもない。
各人のがん発生への発がん要因の寄与度は同じでないであろうし、それを簡単に定量でき
るとも考えられない。突然変異への要因のヒットが発がん過程を一段階進めるか否かは、
かなり偶然に左右されることも想定される。(2)ヒトは遺伝子多型や遺伝子異常の修復能
等が各人で異なり、それが各人の発がん感受性の相違を生んでいる。さまざまな変異原に
対する被影響性が明らかでない中で、性、年齢、居住場所、嗜好物、その他外面的条件を
揃えるだけでは、十分に対照群としての必要条件を満たしていない。(3)ヒトのがん発生
過程では、一般に修復されない遺伝子変異が少なくとも4回行われる必要があるとみなさ
れている。個人のがん発生過程で、遺伝子にヒットする要因が喫煙だけに依存しているか
否かは、検証できない。(4)喫煙がヒトがん発生においてイニシエーターとして働いてい
るか、つまり遺伝子変異作用を示しているのか、プロモーターとして働いている、つまり
がん化細胞の増殖に関与しているのか、明らかでなく、少なからざる研究者がプロモータ
ーとして働いているとの考えを表明している。もしプロモーター作用であるならば、@標
的細胞が他の発がん要因により“イニシエイト"された際にしか働きを示さない、Aイニ
シエイターとプロモーターの間にはある種の物質間特異性があり、1つのプロモーターがす
べてのイニシエイターによる発がん過程を促進することはないなどの少なからざる問題点
が未解決である。
2.7.ヒト肺がんの発生要因の同定
津田氏は、ヒトの肺がん発生要因わ同定がどのような方法論で行われたかを明示せよと
迫っているが、そのような議論は本質的議論と関係がない。敢えて述べれば、臨床医学、
病理学や生化学を基盤とする腫瘍学、それに疫学の共同作業が、職業がんの原因の特定に
結びついたのである。遺伝子多型をはじめ、分子生物学的研究の進展は、少なくとも特定
の発がん物質に対する個人のがん化感受性の大小を明らかにするであろうし、ヒトの内因
の関与の度合いを知る上での手がかりを与えてくれ、他方で、高度喫煙者でも肺がんにな
らないヒトの存在の理由や、その逆の場合の謎等の一端を明らかにする可能性がある。
津田氏は、『このようなこと(筆者注:遺伝子多型研究の目的)を誰が述べているのか』
…『これが明らかになったところで、喫煙と肺がんの因果関係がなくなると認識されるこ
とがあるのか』を問うているが、前者の問題は遺伝子多型研究の主目的として現に実施さ
れており、ごく常識的なことと言えるし、後者は遺伝子多型研究の意図が上記の様である
ことを理解しない者の発言であると考えられる。
2.8.『9.肺がんの実態』
ここでのさまざまな記述が、『喫煙と肺がんの因果関係に関する国際的な認識を変える
ものとは思われない』とし、多要因に関する議論は『疫学理論は…ずっと以前にクリアし
ている』と述べ、『なぜならあまりにも明瞭だったから』としている。
この問題の本質には、疫学がその性質上学問あるいは科学の領域から一歩踏み出して、
疾病予防のためには必ずしも正確な理論的、科学的裏付けがなくとも政策的に予防措置を
とることが重要だという考え、立場を基盤にしているという実情があると考えられ、基礎
医学とは異なるレベルでの議論を行っている点を認識する必要がある。立脚点が違うので
ある。
前回の意見書(乙第171号証)にも述べたように、肺がんに限らずヒトのがんの発生原
因を特定することは、発生過程の複雑さ、多要因への曝露が存在すること、臨床的認知に
至るまでの長い時間経過、がん細胞として成立後は自律的増殖(自らの分裂増殖活性を基
盤とした生体統御機構から逸脱した増殖)活性に基づく増殖であって、増殖に原因物質の
存在を必要としないこと、発生頻度が低いこと等に加えて、遺伝子多型を含むいわゆる発
がん感受性として総合される多くの生体内要因の関与もあって、自然科学的にはなかなか
に困難であると言わねばならない。社会医学としての疫学が、これら未解決の自然科学的
諸要因を飛び越えて、ある特定要因と生じたがんの間の因果関係を特定することがどこま
で可能であるのかは、なお未解決の問題であると思われ、すべて“クリアされた”問題と
して片づけてしまうことが本当に容認できるのか疑問がある。実際には、がんの成り立ち
や、その原因を追求する自然科学者や基礎・臨床医学者の営々たる努力によっても明確にで
きない課題を、疫学がクリアしたのではなく、疫学手法による調査研究で肺がん患者の多
くが喫煙者であったという関連性が認められたことから、肺がんの主原因は喫煙だと認定
したというのが事実である。想定はされるが、評価しにくい他の発がん要因が果している
役割は明確にされていないという事実は残されたままになっている。実験的に肺がんの形
成が証明されているベンツピレンが主役を演じていると見なされている喫煙の発がん作用
を考えるならば、たばこ煙吸入実験は当然有意のがん発生に結びつくはずであるが、吸煙
実験で有意の成果が得られない事実と、濃縮タールを使った皮膚塗布実験等では、皮膚が
んの発生を認めるという実験成績を勘案するならば、通常のたばこ煙に含まれる発がん物
質量は、がんを誘導するのに十分な量ではないことを示唆していると解釈できる。それは、
ヒトの肺がんの発生に対する影響の度合いを考える上で大変示唆的である。
これは、たばこ発がんには、他の要因の協働作用が必要と考える根拠でもある。肺がん
発生に対する喫煙の寄与率90%はもちろん欧米のデータであって、日本人の場合、平山の
データでは70%であることを重視すべきであるが、このことと喫煙が肺がん発生に実際に
寄与している率とは同じではないことに留意すべきであろう。私の考えが、喫煙と肺がん
の因果関係に関する国際的認議を変えるものとは思われないと断じているが、余りに晶煙
に備した原因論に対し、疫学者には再考してもらいたいものである。
2.9.『10.実験病理学よりみたたばこと肺がん』
ここでの記述に対して、『喫煙にかなり高濃度で長期間曝露されていないと言えるので
あろうか』と疑問を呈しているが、私は長期間であっても「かなり高濃度」ではないと考
える。喫煙を職業がんの場合と同一視することはできないことを再度申し上げたい。次項
で述べている実験病理学の結果がどのようであれ、『喫煙はヒトにおける発がん性を持つ
と分類されている以上、…その分類が変わることはない』という津田氏の見解は、個人的
見解として承っておきたい。
3.『11.喫煙と肺がん−その問題点』について
3.1.『11.1.疫学による肺がん喫煙原因説の問題点』
ここでの記述に対するコメントとして、『(科学の)再検証の場に自らの意見を提示せず
に、裁判の時だけにこのように提示してくる』と述べているが、私が2つの総説論文2・3を
発表している事実をご存じないものと思われる。当たらぬ記述である。
また、『能動喫煙の肺がん・喉頭癌・肺気腫への影響…に関して疑問を呈したものは、今
日では根絶されている』と述べているが、今日の喫煙の健康障害一色の論調の中で、過剰
な危険説は許されても、安全を説く論文は非常な慎重さが求められることを考えれば、そ
こに大きな制約があることが理解されよう。
3.2.『11.2.肺がんはなぜ増えたのでしょうか』
この記述に関しての反論は、『喫煙年数と年齢とBrinkman Indexは相関することは、
誰にでも理解できる』こと、及び、交絡要因候補等で処理できる問題としているが、これ
まで一般に喫煙と肺がんの関連が論じられた際の潜伏期間は20〜30年とされてきた。今回
私が統計数値に実際に当たってみると、肺がんの羅患年齢は圧倒的に60歳以上で、肺がん
死亡数のピークは1990年で75〜79歳群、1995年で70〜74歳群にあり、一方、1975年
以降1993年までの年齢階級別肺がん罷患率の年次推移が常に上昇を続けているのは75〜
79歳群で、59歳以下の年齢群では既に減少に転じるか、少なくとも増加は止まり、曲線は
高原状化している。これは、禁煙対策の遅れから肺がんの増加が日本では依然として続い
ているのに対し、禁煙対策が進んだ欧米諸国では減少が認められるとして宣伝されている
肺がん死亡動向が、実際には日本でも若年齢層を中心に増大は止まるか停滞しているとみ
てよい。少なくとも、欧米での減少が禁煙対策のみで生じているとの捉え方に疑問を投げ
かけるデータである。これは、津田氏の11.3.「喫煙率の高さが肺がんの原因と言える
か」に対する反論への回答でもある。すべてを喫煙の動向に結び付けて論ずることの、科
学的妥当性への疑問でもある。
もう一点、従来、喫煙開始から肺がんの発生までの潜伏期間は20〜30年と想定されて、
両者の関連が論じられてきたが、今回の筆者の検索結果では、もっと遥かに長い40〜60年
の潜伏期間が存在することが推測されたので、改めて喫煙と肺がんの関係は検証し直す必
要があることを指摘したい。
現在の高齢者の肺がんが、例えばひたすら喫煙し続けた結果、すなわちBrinkkman Index
の大きいことによるのか、途中で禁煙した場合はどうか、喫煙開始年齢とどう関連するか
など、具体的な解析のし直しが必要となろう。
3.3.『11.4.喫煙と肺がんの組織型』 .
ここでの重要な点は、肺小細胞がんがほぼ100%喫煙に基づいて発生するという疫学者
の認識の当否の問題である。小細胞がんの患者の喫煙歴を調べると、100%近い人が喫煙歴
を有するという調査結果を否定するものではないが、それをもって小細胞がんの原因がほ
ぼ100%喫煙によるという判断のされ方について問題にしていることは、意見書(乙第171
号証)に述べた通りで、実験病理学的にも、肺小細胞がんの原因や発生機序がほとんど全
く解明されていない学問的状況の中で、あたかもアリバイが証明されないからほぼ100%犯
人であるといった判断は、妥当とは考えられないことを指摘したのである。“病理データに
基づいている”というが、肺小細胞がんという診断が病理診断に基づいていることは、こ
の特殊な性格のがんの診断が100%病理診断に頼っている現在、当然の話であって、そのこ
とは全く小細胞がんの原因を担保する話ではない。肺小細胞がんに限らず、どの組織型で
あれ、通常人のがんの原因を特定することは現時点ではできないことを認識する必要があ
る。肺がんが多要因の影響で生じることを述べながら、結論が「ほとんど100%喫煙による」
という形で表現し、矛盾を冒している。
津田氏は、“発生機序とは何か、発生機序が分かるとどのように判断が変化するのかを示
さずに「乱暴な話」と言うのは乱暴な話である”と述べているが、そのような質問自体、
小細胞がんの特異な性質や原因の特定ができていないがんであることの認識がないことを
示しているばかりでなく、肺がんの組織型がどのような条件と関わるのか、殊にまだ十分
に解明されていない多くの生体側の要素が存在し、さらに発がん因子の化学的特性や曝露
経路など、複雑に絡み合っていることをご存知であろうか。がんの専門家ではないだけに、
発言は慎重であらねばなるまい。
発生機序とは、どのような原因(群)がどのような条件下でどのように生体に曝露した
とき、生体側のどの部位のどのような細胞が反応し、どのような過程を経て、ある特定の
組織型をもつがんが発生するかという一連の発生過程全体を指す言葉であり、発生機序が
判れば原因の特定もかなりの程度明確にされることになる。 l
このような問題について、筆者が1991年に発表した文献4を添付するので、参考にされ
たい。
3.4.『11.5.米国の喫煙と肺がんの関係の奇妙さ』
これに関するコメントに関しては、津田氏が世界各国のがんの動向、なかんづく肺がん
の動向について十分承知しておられないようにみえる。WHO等からの公式データに基づく
年齢調整肺がん死の年次的動向図を前回の意見書に添付しなかったことを後悔している。
改めてここに提示する5。図に明らかのように、欧米先進国といっても決してひとくくりに
できる状況にはなく、津田氏が引用している英国(イングランド&ウェールズ)の男性肺
がん死の動向をみると、1970年にピークに達し、1975年前後からかなり急速に低下を示し
ている。この低下は喫煙率の低下と同時進行しており、そこにタイムラグを認めない点に
注意される必要がある。厚生省編;喫煙と健康第2版10頁所載の表6を添付する。このよ
うな形の低下を喫煙率の低下で本当に説明できるのであろうか。ここでのもう一つの問題
は、禁煙後何年経ったら喫煙の影響から免れ得るかについて、科学的に納得のいくデータ
が無いことである。
欧米諸国の肺がん死亡率の動向もさまざまで、細かく各国の社会状況を検証することな
顕微鏡であれ、あるいは化学的に分析したとしても、原因物質を同定することはできない
ことを述べたもので、2つの記載は何ら矛盾した話ではないのである。感染症を引き合いに、
私の無知ぶりを指摘しているが、そのような理解は現在常識に属する。原因菌の同定ひと
つをとっても、微生物学の専門家に依存しているのであり、疫学関連の仕事はいろいろな
領域の専門家の手を借りて成り立っていることを述べたまでで、指摘のような浅薄な議論
をしているわけではない。IARCによる「ヒトにおいて発がん性がある」との分類は、さま
ざまな実験データと疫学知見を勘案して下した判断であるが、例えば喫煙が肺がん発生に
どの程度に関わるかという点まで踏み込んだ具体的記載をしているわけではない。ある要
因に「発がん性」があるという表現は、その要因の化学的特性を示すものであるが、実際
に発がんに関与したか否かの判断は発がん過程に関わる多くの条件をクリアして確かな発
がんの証拠が示される必要がある。両者は同じではないことの認識が不十分なため、議論
がしばしば混乱して論じられていることを指摘したい。
第3段落についてのコメント(10貢)では、対照群の問題は議論され尽くしており、割
り付けや交絡要因の問題だとしているが、遺伝子レベルの違いは、これまで考慮の対象に
はなり得なかっただけでなく、数十年にわたる生活歴の相違まで含めて交絡要因が配慮さ
れた調査研究が行われたとは言えない。
第4段落に関しては、またも交絡要因を持ち出して、クリアしているとしているが、現
実に人で同定できていない問題までが疫学ではすべてクリアできているとすることの研究
精度に問題はないと言えるのか疑問である。
第5段落への反論は、全く不適切である。「他の要因を挙げればタバコの発がん性がなく
なるとする考え方」が、と述べているが、そのような肺がんの喫煙唯我論的考え方に疑問
を呈したのである。
第6段落へのコメントも、言葉遊びの類の反論に過ぎない。
第7段落、第8段落へのコメントでは、量反応関係の成立の要因として、曝露量が高い
群にもがんを発症しない個体があるから量反応関係が成り立つのであ呑と述べているが
(この説明はよく理解できない)、第8段落で指摘したかった点は、集団としての因果関係
が仮に成立したとしても、それを個人にそのまま適用することには問題があるという点で、
低量曝露で肺がん発生をみた個人、多量曝露でも肺がんの発生をみなかった個人の、それ
ぞれの理由については、多くの解釈が可能であり、高度喫煙者の肺がんの発生が直ちに喫
煙によるとの判断も下せないし、まして、軽度喫煙者の肺がんが喫煙によるとの判断は更
に難しくなることを指摘したかったのである。個人差の多様さが、どのような結果に結び
ついているかは、まだ将来の研究課題である。私の「結語」に対するコメントでは、津田
氏は自らの説が地動説で、例外者の蟹澤とアイゼンク氏を頑迷な天動説信奉者と決めつけ、
金銭の授受によって真実を曲げた不時な学者と言いたいようである。
天動説、地動説は“all or nothing’’の議論であるが、喫煙と肺がん、あるいは喫煙関連
のがんの問題は、“all or nothing”の形で論じられる類の問題ではないことには、津田氏も
異論はあるまい。
6.結語
私は、喫煙と肺がんについて述べた2つの総説に率いても、今回の意見書においても、
現在のヒト肺がんの原因論が疫学研究を基盤にし、あまりに喫煙に備した状況が生じてい
ることに対し、実験病理学や腫瘍発生学を専門とし、殊に肺がんの発生について永年研究
を進めてきた者からみて、まだいろいろ未解決の問題があり、決して学問的に解決したと
は言えないこと、殊に喫煙以外の肺がん発生要因の評価が十分な研究データが無い状況の
中で交絡要因としてクリアされたとみなされてしまっている現状や、ある化学物質にがん
を発生させる能力があるという定性的問題と、ある曝露条件の下で実際にがんを発生させ
る能力があるか否かという定量的概念の評価がしばしば混同されていること等、問題の存
在を指摘してきた。このような学問的異論は当然許されるはず甲もので、それが学問の自
由であり、それを異端論者、正義に敵する者の如く扱うのはどうであろうか。裁判の証言
でも述べたように、喫煙対策運動そのものに反対しているのではなく、危険を過剰に問う
方法論は適当でないこと、また、集団を対象とする疫学的知見をそのまま個人の病因論に
持ち込むことの学問的妥当性に異を唱えているのである。
「疫学的手法の持つ限界」については、疫学者が自ら考えるべき問題であろう。限界な
ど無いと主張されるのであろうか。
7.附言
7.1一.「第3章.蟹澤証言について」について
内容的に重複する点が少なくないが、一応私の見解を申し上げることとした。ここで、
津田氏は「主尋問の内容に関しては、意見書の中で大まかに指摘した点で、ほとんどカバ
ーできる」と述べている。しかし、それは一方的な発言と言わねばなるまい。甲73号証意
見書でも、いたる所で私の意見に対し具体的に反論することなく、それは交絡要因の問題
であるとか、疫学理論でクリアされているとか、私が誤っているといった形で、自分の主
張の正当性を印象づけようとしている。病理学や腫瘍学の専門家として、科学的見地から
疑問を呈していることに対し、時には的外れの論を展開---例えば、ウイルスとがんの問
題の記述(4頁)のように−することで反論するような手法が少なくない。
私が「喫煙と肺癌の因果関係を否定してはいない。むしろ認めている」毒(甲第73号証11
頁)と述べているが、私はもとより関連性があることを否定はしてはいない。両者の間に
全く関連がないと主張する科学的根拠が無いからである。しかし、それは疫学で主張され
ていることをそのまま認めることを意味するものではない。それが故に、意見書でも、裁
判の証言においても、多くの疑問点を指摘し、それらについて納得のいく説明を期待した
のである。
「対策が早急に取られた諸国ほど肺がんの死亡率は低下してきている」、「タバコ対策が
r
早急に取られたイギリスでは、肺がんによる死亡率は最高時の半分にまで下がってきてい
る」と述べている(甲73号証11頁)が、私の意見書の中で、英国では過去に大量の石炭
の使用による大気汚染がさまざまな呼吸器病の原因として大きく作用していた事実や、最
初の職業がん例になったことで有名な煙突掃除夫の陰嚢がんの発生報告(P.Pott、1775年)
で証明され、ウサギの耳皮膚における世界最初の人工がん作成(山際、市川、1914年)も
コールタールの塗布により行われた事実を考えれば、イギリスにおける肺がんの減少には
石炭の使用の減少による大気汚染の改善が関わっていることは直ちに推測が可能なはずで、
喫煙率の低下のみを理由にずることの非は明白であるにも関わらず、その点には全く至言及
がない。では、肺がん死亡率が半減したとしても、なお世界で有数の高い肺がん死亡率を
示しているイギリスの現状をどのようにして喫煙のみで説明できるのであろうか。喫煙対
策に早急に取り組んだノルウェーの肺がん死亡率が日本と同じ肺がん死亡率の推移を示し
ていることも意見書で指摘した(35貫)が、この状況はどう説明するのであろうか。
また、「喫煙と肺癌の因果関係を認めれば、個人への当てはめは、すでに世界において定
式化している」と自論の展開を急いでいるが、因果関係に対する疑問に対して答えず、原
因確率は「90%を遥かに超えている。議論の余地はない」と断定している手法は強引と言
わざるを得ない。
前述したが、津田氏の誤りは、IARC(WHO)が行った喫煙の発がん性の認定について、
“肺がんの原因が喫煙による’’と認定していると誤解している点にある。そのため、喫煙
者の肺がんはすべて喫煙が原因であると短絡的理解をしている。喫煙者の圧倒的多数は肺
がんにならないのである。肺がんが多要因で発生することを認め、かつこのような状況の
中で、肺がんになった喫煙者がすべて喫煙によって肺がんになったと、どのような理論で
説明できるのであろうか。最も基本的な“原因の特定ができない”という科学的現実の中
で、喫煙者の肺がんは喫煙が原因とみなした上で算出された原因確率が90%を遥かに超え
ているからそれは個人に当てはめられるという論理は、果たして成立するであろうか。
次の項において、津田氏は「地理病理学において、民族間における肺癌死亡率の異なり
を説明しておきながら、一方で各国間の肺癌死亡率と喫煙割合のバラツキを、結論の先送
りの理由とする自己矛盾をおかしている」と述べているが、現在、地理病理学的に明らか
にされているのは、民族的相違よりも、環境要因一例えば、環境汚染や食習慣、摂取食
品の構成の違いのような居住先の諸条件−の相違が、それぞれの国におけるがんの発生
頻度に大きく関わっているということで、これは疫学者なら当然熟知しているはずの事実
であるが、その意味するところはがんの発生が多要因の複合作用に基づくということで、
例えば、肺がんの発生が喫煙率の動向だけに左右されるものではないことを示している。
1
90%を遥かに超える原因確率で喫煙が肺がんの発生を左右しているのであれば、世界各国
の肺がん死亡率の消長は喫煙率の動向に応じて忠実に変動するという単純な形をとるはず
であるが、事実は意見書(乙第171号証)に示したように、そのようになっていない。そ
こには何ら自己矛盾はないのであって、地理病理学的知見を認めた場合に主張の矛盾が指
摘されるのは津田氏側である。
7.2.「第4章.動物実験とは」について
津田氏は、私が「動物実験の結果に固執している」と述べて、たばこ煙吸煙方式では実
験的に肺がんの作製が証明できないという事実を葬り去ろうとしているようにみえる。私
が喫煙と肺がんの関係を検証する上で、動物実験の結果に「固執」しているようにみえる
のは、次のような根拠があるのである。すなわち、動物実験の成績が通常ヒトが曝露を受
ける濃度より遥かに高い濃度で投与した結果得られたものであるという事実と、動物とヒ
トの間には種差が存在するので動物実験成績が単純にヒトに外挿することができないとい
う制約があることは承知の上で、たばこ煙中に存在する発がん物質は既知物質であり、そ
れらの物質を高い濃度で別な投与形式で動物に与えた場合にはがんが発生することが証明
されているのであるから、喫煙が肺がんの原因であるならば喫煙の形式でも肺がん等が形
成されてよいはずであるにもかかわらず発生を認めないことの合理的説明は、たばこ煙中
に含まれる発がん物質の濃度ががん発生に必要な量以下に留まる可能性を示唆していると
考えられるからである。喫煙単独による肺がん発生を疑問視する根拠の一つは、このこと
による。
また、津田氏は、動物実験の研究方法論の内容は、「疫学テキストの内容に非常に似てお
り、動物実験が疫学研究と異なるのは、有害作用があることがほぼ分かっている物質に関
しても投与群に投与が許される点、また屠殺が可能であるという点だけである」と述べて
いる。私は、この2点だけの相違でも大変な違いと認識するが、私の意見書(乙第171号
証)にも述べたように(11〜12頁)、動物実験研究とヒトによる疫学研究の最大の相違点は、
ヒト集団は遺伝形質の面で全く複雑集団であるのに対し、動物実験では遺伝形質がほとん
ど全く同一な集団を用いて実埠されていること、投与開始日齢、投与濃度、生育環境、食
事内容等々、研究条件を最大限統一して行われており、ヒトを用いた研究ではこのような
均一性は到底望めない点を忘れている。
11頁「さて、動物実験に限らず、…パールはそのような状況を次のようにまとめている
(Pear12000)」という文章と、Pearlのまとめの記載(12頁)を示した意図はよく判らな
いが、「動物実験よりも疫学研究結果を優先する」と.いう「IARCのみならず各国の医学界
の原則」や「動物実験さえも、疫学研究方法論に基づいている」ことを述べることで、疫
†
学の優位性を主張したい意図と判断される。既述のように、ヒトのがん発生を予防する見
地からIARCが喫煙の発がん性を認めることは問題がないが、その原因確率が90%を遥か
に超えるなどとは認定していないし、それが個人にまで適用できるとしているわけでもな
い。それは、研究レベルの−つの説と考えるべき事柄で、当然異論もあり、反論もある性
質のものである。このことは、19世紀のフランスの偉大な生理学者クロート・ベルナール
がその著書「実験医学研究序説」(1865年)で強調し、今日でも科学研究者の共通した認識
となっている。
「因果推論を「実験」にこだわることは無意味である」という難解な記述が第4章の最
後で行われ、実験は実社会に役立たないことを言外ににおわせているが、実験研究の成果
が疫学に反映し、疫学知見が社会に正当に適応されるような仕組みが社会から最も望まれ
ていることを忘れてはならない。
7.3.「第5章.疫学的方法論により得たデータは個人に適用されている」について
この件に関しては、14頁「5・2.曝露群寄与危険度割合の合計が100%を越えることに
ついて」の記述において、「癌は、人間の体内で作られる以上、人間が作ったタンパク質か
ら構成されている。人間の体内で作られるタンパク質は、100%その人間の持つ遺伝子の指
令により作られる。従って癌は100%内因により形成される。一方、…癌の100%が外因の
影響を受けている事を意味する。合計は200%である」といった理解に妄り、「曝露群寄与
危険度割合の合計が100%越えるのは当たり前である」という論理の展開には非常な驚きを
覚えろ。何より、細胞ががん化する過程に関わる発がん因子の作用と、がん化した細胞が
増殖する過程の現象という、全く異なる時相の話を寄与危険度割合として一緒にすること
は、全く理解を超える話である。
「癌の原因は、いや癌以外の人間の病気でも…」の項において、「原因を自分が思いっい
た2から3個に絞って、窓意的に論じているのは蟹澤の方である。たとえ動物実験であっ
ても、原因を1つに絞ることはできない」と述べ、例によって具体的根拠を示していない。
私の意見書の記述を見れば、常にデータを示し、論拠を具体的に挙げて論を進めているこ
とは明白である。しかも、これは1世紀をかけて作り上げられてきた腫瘍発生論を基盤に
しており、個人の窓意的な、身勝手な論理により論を展開したものでないことも∴適当な
腫瘍学の権威者に評価してもらえば分かることである。「また、大気汚染や職業性に…」以
下で述べている‘‘錯覚の理論”の根拠が「癌の原因が個人において1つであるというふう
に蟹澤が錯覚しているためである」との主張は、私の記述のどこを根拠にそのような判断
を下したのか、理解し難い。
7.4.「第6章.疫学的方法論のカバーする範囲」について
′
「6・1.病理学・臨床医学・基礎医学・疫学の関係」で、津田氏は、相変わらず「病理学
や臨床医学は、「病気になっているか否か」を定めるだけで、ヒトにおける病気とその原因
の因果関係を明らかにする学問ではない」との主張を繰り返している。津田氏のこのよう
な理解の仕方は、「病気」の理解が全く概念的なもので、患者という一人の人間がかかる病
気という具体的な状況が理解できていない。ある集団における、ある病名をもった集団を
対象としていることからきているのではあるまいか。臨床医は、ある症状を呈する患者を
問診し検査知見を総合して病気の原因を探求するのである。原因不明で症状に頼った判断
では的確な治療が行えない。これに加えて、現代医学では、病気の原因を同定する上で参
考になるそれぞれの疾病の診断根拠に関する知見の積み上げがある。病理学は、単なる臨
床検査とは異なり、臨床医から患者の病歴や検査知見の報告を受けて病変部の検索を行う
ことで疾病の原因を明らかにしようとする。個々の疾病について、長年にわたり積み上げ
られた病理学的所見の集積が、病気の診断や原因の判定に役立てられるのは申すまでもな
い。この段階までは、疫学の出番はほとんど無いのである。疫学の出番はむしろこれら知
見に基づいて研究が始まるのであり、また、ある特定の疾患がある地域で多発するような
状況があるが、その原因が臨床的あるいは病理学的に特定しにくい場合に、それまでに得
られている知見を参考に、疑いをもたれた原因候補を中心に因果関係の有無を推定するの
である。しかし、疫学が万能でないことは明白である。世界で1、2位を争う日本人の胃が
んの原因について、疫学が原因の究明について何程の貢献を示したであろうか。喫煙が胃
がんの発生に関与するとの平山のデータがあるが、高率の肺がん死亡率が喫煙によるとし
て反喫煙運動を展開する米国における胃がんは、喫煙率の低下とは全く無関係にすでに
1930年代から激減し、1995年のWHOデータでは、日本の10万対50.2に対し、アメリ
カは6.4の低率にある。これらは、疫学データと簡単に鵜呑みにするのでなくいろいろな検
証が必要なことを示唆している。
7.5.「第7章.アウトブレイク」について
この章の冒頭の文章は、疫学の特質を如実に示すものとなっている。細菌感染に基づく
疾病の発生と、発がん因子曝露によるがんの発生の間には種々の点で計り知れない違いが
あり、潜伏期間の長短も単なる時間の長短の違いで済まされる問題ではない。長い潜伏期
間は多くの交絡要因の関与を招くが、証拠に乏しい発がん因子の種類、それらの曝露頻度
や曝露量、遺伝子変異の有無、物質間の作用特異性や各個体の内因子の相違と、それらの
総合された発がん感受性差など複雑な過程をとるがんと原因因子が確認可能で、原因と結
果が直結する感染性疾患では全く異なる形の因果関係が存在し、その同定がほとんど不可
能な一般人のがんの発生を同じ因果関係論で扱えるという考えは、根本的に誤りと言わね
r
ばならない。原因と結果が直結している病原微生物による疾病の発生を基盤とする因果関
係論では、喫煙者に肺がんが発生すればそこに因果関係が成立するという図式になるであ
ろうが、腫瘍発生論的にはそのような単純な論理にはならないのである。
次で津田氏は、疫学の優位性を主張すべく、「遺伝疫学・分子疫学という形で、疫学的方
法論を取り込まざるを得ないのである」と述べているが、これは全く逆の話で、疫学が近
年急速に進歩した分子生物学的研究手法を取り入れて研究領域の拡大を図る目的でこのよ
うな研究領域が設けられてきたのであって、その逆ではない。
7.6.「第8章.おわりに」について
公衆衛生学が疾病増加防止のための対策を講ずることを使命としていることは、皆が了
解している事実である。喫煙者集団において、非喫煙者群より肺がんの発生頻度が高いと
いう疫学調査結果も一つの研究成果であることは確かである。しかし、その研究結果は、
私の意見書(乙第171号証)において、また今回の意見書において縷々述べたように、疫
学調査研究ではカバーできない調査手法上の不確実さや、科学的に証明できない個人の喫
煙と肺がんの因果関係を「みなし」の論理で因果関係ありと判定して論を進めている。加
えて、そのような形で計算された集団における評価数値をそのまま個人に適用可能という
病因割合論を適用するという方法論をとっているが、津田氏が例にあげた事象は、0157:H7
にしろ「雪印」の例にしろ、すべて原因が明確な病原微生物に基づく疾病発生事例に限ら
れ、がんの発生に適用されうる理論であるか否かの検証はできていないように見える。
津田氏は、「1998年3月6日の第二回21世紀のたばこ対策検討会議事録によると…」
以下で、同会議に提出された私の文献わ内容につき、富永祐民氏の発言を引用して、私の
意見書や証言がこの記述と「矛盾しているのではないだろうか」と述べ、更に「純学問的
には1960年頃に決着がついたことは前回の意見書で説明した通りである」と述べているが、
津田氏のこれらの記述は、喫煙問題の現況を記載した私の論文の一部を抜き出して、あた
かもそれが私の意見であるかのように誤用した富永博士の誤りを再び誤用しているだけで
ある。私の論文に直接あたって、私の真の主張を正確に理解していただきたい。また、「純
学問的には1960年頃に決着がついた」としている点も、ではなぜ学問的に決着がついた問
題をその後40年にわたり非常に多数の研究者が営々として研究を続けてきたのか、説明が
つかないのではあるまいか。津田氏は当時の論争において、どちらが優位を占めたかとい
うことと学問的決着とを混同しておられる。1つの学説は、その後の研究の進展により絶え
ず更新される宿命にあり、少なくとも生物科学の領域では不易の学説はほとんど存在しな
いことを、かのクロード・ベルナールが19世紀中葉に指摘しているが、このことは今日で
も正しい指摘として受け入れられている。
r
1950年代の腫瘍学のレベルと現在のレベルとの間には、格段の相違がある′。この間に多
くの発がん物質が発見され、発がんメカニズムについても飛躍的な進展があり、発がん過
程の病理学的知見も格段に精緻なものとなった。分子生物学の発展も腫瘍研究の中で培わ
れたものである。
1950年当時想定できたヒト環境発がん要因はごく乏しいものであったのに比較して、現
在では格段に数を増し、存在の様態も多様であると共に、工業化社会の発展が化学物質の
環境への排出を増大し、環境破壊を加速してきた現実がある。そのような歴史の展開の中
で、疫学調査研究の方法論は如何程の進歩があったのであろうか。疫学でいうところの交
絡要因は増加しているはずであるが、現実にはその影響度を把握し、評価する客観的手法
の取り込みは進展しているようには見えない。
津田氏は「竹本氏や蟹澤氏のように日本でしか、しかも裁判の場でしか持論を展開しな
いような学者とは・‥」といわれのない発言を行っているが、私そして私の共同研究者達は、
研究論文の大部分を欧米の秀でた学術雑誌に発表し、肺がんの発生に関する著書の分担執
筆7にも加わり、海外の国際学会にも積極的に参加してきた。その評価の一端は、国際的に
著明な肺病理学者であるH.Spencerロンドン大学名誉教授が、その2巻にわたる大著
“Pathology of the lung’’(肺の病理学)の第2巻(1985年)852〜853真において、“ヒ
トで発生する肺がんに類似した動物肺がんの再現についての最近の挙展については、
Nettesheimら(1982年)及びKanisawa(1982年)が記載している”と紹介しており、
評価を受けている。
7.7.第19回口頭弁論補遺
平成13年11月27日の第19回口頭弁論では、証言途中で原告ら代理人弁護士が次の質
問に移行したり、質問の真意が不明瞭で、証言が適確でなかった等の不十分な証言を余儀
なくされた面が少なくないので、以下に若干の補足を試みると共に、裁判の質疑応答を通
じて原告側の発言の問題点を指摘したいと考える。
「質問49病理学は、がんと環境要因との関係を論じる学問ではありませんね」の質問
に対し、”全く論じないということはないと思いますが、それを病理学ですべて究明できる
というわけでもない”と答えているが、この点、もう少し補足を行いたい。
質問が「関係を論じる学問」とあるため、それだけの学問で時ないとの考えが先行し、
あいまいな回答になっているが、「環境要因との関係も論じる学問である」と答えるのが適
切であると考える。私共は実際に、都市環境大気の吸入が動物の呼吸器にどのような影響
を与えるのかの病理学的研究8や、大気中浮遊塵を捕捉して、これを動物肺に吹き込んだ時
の影響を病理学的に研究する等の実験研究9を行っており、それを基礎にして環境汚染と肺
がんの関係を論じているし、日本でも存在が確認されているかび毒「オクラトキシンーA」
の経口摂取が急性腸炎の原因になる10ほか、長期投与によりマウスで腎がんと肝がんの発
生をもたらすことも世界で初めて明らかにしている11・12。これらはすべて、病理学研究を通
じて環境要因の毒性や発がん性を論じる基盤研究である1a。これが、ヒトにおいて実際にど
のような影響を与えているかを明らかにするのは疫学の仕事であって、基礎研究に裏付け
られて疫学研究の展開が行われる一例である。
26頁「質問112発がん性の同定が病理学者に依存しているというのは、間違いじゃあ
りませんか」という質問から以下の質問118までのやりとりは、原告ら代理人伊佐山弁護
士が、「発がん性の“同定”」という言葉を使って質問しているところに議論の根本的な行
き違いがある。疫学はがんの原因を同定する学問ではない。表に現れた現象間の関連性を
統計的に推測する学問であって、本来病理学その他の基礎研究成績の--診断ではない
単なる組織型の--裏付けが必要である。これに疫学調査結果を加えて、総合的に発がん性
ありとの判断、あるいは認定が下されるのである。
喫煙したヒトの肺がんがすべて喫煙により生じたという判断はできないし、また、科学
的にみれば、複数の環境要因が関わっていると判断するのが妥当なのである。
質問133(32頁)では、伊佐山弁護士は、質問132(31頁)の私の回答“特にいろんな
要因がある中で出てくるがんというものについて、ある特定の一つのも.ので何かを説明し
ようとしても…”に対して、誤った理解のもとに論を進めておられる。「疫学調査というの
は、一つのことで決めているわけではありませんよね。当然病理学も前提になっているは
ずです」と受けておられるが、質問132に対する回答で私が述べた「特定の一つのもので」
における“一つ”は、“喫煙のみで”を意味している。
さて、質問135(32頁)から139において、伊佐山弁護士は、肺がんのタイムラグにつ
いて触れられ、30〜50年のタイムラグを考えるべきと述べておられる。この意見は、質問
139への回答で述べたように、私が意見書(乙第171号証).『9.1日本人肺がんの発生年
齢と発生率』の項で新たに提案したタイムラグで、従来は20年程度からごく長く考えても
30年程度とみなされて、喫煙率と肺がんの関係が論じられてきた。原告側提出の甲第73
号証図7・6の英国人男性35〜59歳の喫煙率の動向(1950〜1998年)によると、1948〜
1952年の82%から1998年の36%へと大きく低下していることが示されているが、図7・3
の男性肺がん死亡率(55〜74歳)では、1972−73年の人口10万対死亡率450弱をピーク
として1974−75年以降急速に低下がみられ、1998年には250を下回っているが、タイムラ
グを40年と仮定すると1970年以降の急激な死亡率の低下は喫煙主因説では説明がつかな
いことを認めねばなるまい。つまり、英国における肺がんの減少は、1950年以前の別な要
因
推測すれば大気汚染
の改善が原因であるとの推測が成り立っのである。40年
以上に及ぶタイムラグに対する検証はできていないことは、私の意見書に述べてある通り
である。
以上
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